思ったこと記録

書きたくなったら

贈る

成人して2年経ち、迎えた父の誕生日。

誕生祝いとして景色の綺麗なレストランに招待した。

落ち着かない様子で食事をする様子は、今まで見てきた父親の姿とは少し違って見えた。

 

我が家はイベントがあるとプレゼントを贈りあう家庭だった。

母の日、父の日、誕生日、クリスマス…

プレゼントを貰って育った私は、貰うことも、贈ることも普通のことだった。

幼い時は習慣に只習っていたが、歳を重ねるにつけ、そのことに意味を見出すようになった。プレゼント選びには、少しの面倒臭さと、相手が喜びそうなものを想像する幸福があった。

 

食事中、父は私に言った。

「俺は流れでプレゼントを贈っていただけで、別に贈りたいと思っていたわけではない」

 

私は今まで何を貰い、何に喜んでいたんだろうか。

正直にいうなら、父の本音を聞いてショックを受けたのかもしれない。

贈る喜びを教えてくれた人間が、本当は贈る喜びを感じていなかったのか。

 

 

 

苦しまぎれに質問した。

「じゃあ、プレゼントを貰うことは。貰ったら贈らなきゃいけないし、面倒?」

「貰ったら、それは、嬉しいと感じる」

 

そう、と返して切っていたチキンを頬張った。

少し塩辛かった。

「女だから」という意識の話

普段あまりドラマを見ないのだが、先日久しぶりに気になったドラマを見てみた。
主婦である主人公と近所に住む主婦友達を中心に描いたものだった。
その中で何度も出てきた言葉がある。
「女だから」

この「女だから」の後に続くのは大抵よくない話で、そのことについて気にしている描写が何度も見られた。
こういった「女だから〜」といった悩みは、女性にはよくある悩みなのだろうか?

私が自分が「女」であることを意識し始めたのは最近の話で、女子大に入ってからだ。
しかし、自分が意識し始めたきっかけは、「女だけが入れる大学に入学したこと」、ではない。
大学の授業の中で「女性が受けている差別の問題」を教わったからだ。

幸せなことに、今まで自分は「女」であることを理由に不当な扱いを受けたことはない。
学校でもアルバイトでも家庭でも「私は私」として扱われていた。「女」だから何か出来なかったり、不利だったりするということが、身をもってはわからない。

でも「女性が受けている差別の問題」について学ぶうちに、

「女は不当に扱われるもの」
「私は女」
「だから女の私は不当に扱われることがあるんじゃないか」

とあまり意識せずとも思うようになった。私は「女だから不当に扱われ」たことなどないのに。

そんな自分がこわいと思った。被害など受けなくても、簡単に被害者意識は持てるのだ。


実際には「女」という理由での差別や不当な扱いは現在もあるだろう。私が体験していないだけで。
今私が体験せずにいられるのは、その問題に対し行動してきた人たちのおかげだ。

その努力によってできた今の社会で、あえて私は「女」を理由にしないようにしたい。
「女だからなのかなあ」と憂いるだけでなく、
「女だから」できないことなど、ないのが当たり前なのだと、私が体現したい。

今はもうない場所へ

はじめての投稿なので、お題に頼る。

 

今週のお題「行ってみたい場所」

今はもうない場所へ

いきたい。

 

自分で言うのもなんだが、まだ人生を長く生きてはいない。

けれど、昔はあって、なくなってしまった思い出の場所はいくつかある。

特に印象深く残ってるのは遊園地の類。

 

私が哀愁を感じてしまう場所を紹介したい。

 

  • 東京セサミプレイス

東京セサミプレイス

サマーランドの横にあった、エルモでおなじみ「セサミストリート」のテーマパーク。

入口のエスカレーターが印象的だったが、今はもう埋め立てられているらしい。

2006年に閉園した。

 

  • 富士ガリバー王国

巨大ガリバーが横たわったまま放棄されたかつての楽園「富士ガリバー王国」 : カラパイア

広い敷地を使用した、「ガリヴァー旅行記」のテーマパーク。

横たわったガリバーは一度見たら忘れられない。

2001年閉園。

 

 

 

他にも、遊園地の類ではないけど哀愁を感じる場所がある。

おもちゃ屋さんの「トイザらス」だ。

米トイザらス破綻、日本は? | マイナビニュース

いや、ぜんぶなくなったわけではないけどね。

最近店舗を見かける機会が減った気がする。

小さい時は、「トイザらス」という空間にいるだけで楽しかったけれど、潰れてしまった店舗をみると、今の小さい子はそういう喜びを体験したりしないんだろうか、と勝手に悲しくなる。

 

 

自分にとって懐かしいような寂しいような気持ちなる場所は、自分だけの体験をさせてくれるかもしれない。